やめてみて見えること
この2日、食事を本当に作りませんでした。
添加物を気にせず惣菜や冷凍食品を使ったり、テイクアウトや納豆ごはんのみなど、
今まで怖くて出来なかった荒れ果てたメニューでした。
はじめのうちは、「うわぁ〜なんて楽なの!!!」という気持ちと、
「栄養面大丈夫かな」「満腹になってるかな」「これすごい添加物だらけだ・・・」という心配と罪悪感の気持ちが交錯していまいた。
その後、面白い感覚か湧き起こってきました。
その感覚とは、
「ん〜〜!
なんか料理したくなってきたぞーーー!!!」
だったのです。
夫や息子が状況を察して、作れないなりに簡単な食事を作ってくれましたが、
予想に反して、100%純粋に喜ぶ自分はいませんでした。
確かに楽だし、今まで嫌々作っていた日々の食事から解放はされましたが、
同時に、嫌々作り始めるものの、段々と集中していき、段取りを組みながら黙々と手を動かす確かな爽快感を感じていた自分を思い起こしました。
そして、家族が美味しい!と言ってくれ完食してくれた時の報われたような心の充足感。
料理が得意でない私はパパッと作れなので、頭も心も消費する家事トップ1が毎日の食事作りなのです。
でも、そのストレスがあったからこそ、報われる瞬間をより濃く味わえるし、
時にはその集中している状態が心地いい時さえあったのです。
今思えば、、、
そう、振り返ることが出来たのです。
今でも料理が好きにもなっていないし、嫌な家事のトップに変わりはありません。
でも、疲れたら休めば、モチベーションが湧いてくる自分を発見しました。
そして、その理由も、振り返ればずっと前からそこにあったことにも気付けました。
料理は好きではないけど、家族のために食事を作るという家事の一つとして大きく俯瞰して見てみると、私がやりたくてやっていたのかもしれない。
嫌というストレスがあるから、その反対側に生まれる充足感や報われた時の緊張がほぐれて温かいものに変わるあの感覚を味わえるのかもしれない。
そう思うと、やらされている感覚から、自分で選択してやっているのだと思えてきたのです。
時々は、食事作りを堂々と投げ出そう。
散々願っていたことでも、叶ってみると思っていたのと違う、という感覚には早く気付けた方がいい。
人生の貴重な時間を、モヤモヤする毎日に持ってかれずに済みます。
私の理想を持つための基準は、いつも不機嫌な自分ではなく楽しく毎日を生きていられているか、どうか。
日々の食事作りを不機嫌なものにしない為に、良い部分を俯瞰して見られたことがとても良かったです。
それでも嫌な時はもう疲れている時。
食事作りが嫌になる前に、堂々と休息して、不機嫌な自分でいる時間を減らしていこう。