つまらない毎日を変えたい!40代専業主婦の1日1チャレンジ日記

42歳専業主婦、冴えない毎日すぎて耐えられません。

つまらない毎日、もがく毎日、愚痴る毎日、泣きたくなる毎日。冴えなくて虚しい42歳専業主婦の何とかしたい毎日を書き記します。

話を聞かない人は物の扱いが雑?

 

 

 最近、子供の物の扱いや管理が悪いせいで、

まだまだ使える物を捨てざるを得ない、

さらには学校で必要な物だったため、

新たに買い換える、

ということが立て続けに起きました。

 

 「なんで物を大切にできないの!!」

 

とありきたりな怒り方しか出来ず、

子供も事の本質をわかっていないようだし、

出費もかさむし、

自分の願うような人間に育てられていない現実に、

イライラが募っていました。

 

そこに、話を聞かない夫とくるので、

頼りになるどころか、、、

 

どうしてこんな風に育ってしまったのか、

と、考えれば考えるほど、

情けなくて、

悔しくて、

不安で、

それら全てをイライラという一つの感情にまとめて、鬼母鬼嫁になっていました。

 

そんな時、ふと気付いたのです。

そういえば、

この台詞、何度も使ってきた。

そう、夫に。

 

夫は物の扱いが雑なので、

「なんで人の話を聞いてないの!」

の次に多い私のイライラ台詞が、

「もっと物を丁寧に扱ってよ!」

なのです。

 

 え、夫に似てしまったの・・・

 我が子よ〜〜(涙)

 

子供と夫の行動や思考が似てる!

直感で心がざわつき始めました。

 

 ネットで、

“物を大切に出来ない人”

と検索すると、

“物を大切に出来ない人は人も大切に出来ない”

とかなりの確率で出てきます。

 

これは、私の体感としてもしっくりきます。

子供も、友達関係にはどこかクールでな所があり、

少し心配になる時があります。

心当たりありまくり!

 

 なんとかせねば!!

 

 夫はともかく、子供にはこのままではいけない。

 

 策は色々考え中ですが、

今日は、

 

物を雑に扱う=人を雑に扱う=人の話も雑に聞く

 

この方式を発見した事がまず一歩という感じです。

 

 物を大切に扱えるようなれば、人の話も大切に丁寧に聞けるようになるのでしょうか・・・

 

 

 

夫が話を聞いてくれない

 

というか、その時は彼なりに聞いてはいるのだろうけど、

 

すぐ忘れるんです。

 

しかも、そういう時って試練かのように何度も続くんですよね。

 

「また人の話聞いてない!」

「何回伝えたらわかってくれるの!!」

「どうして、私の言葉をないがしろにするの?」

「私にはその価値がないてことなの?」

 

もうイライラは倍掛け増幅。

そして、段々と悲しくなってくる。

 

そんな私に、夫は敏感になり、

夫婦間はとてつもなく心地悪い緊張感で充満していく。

そんな状態なもんだから、当然、夫は、

 

私の話より、

私の機嫌を聞くようになる。

 

もう悪循環です、はい、嫌というほどわかってるんです、自分でも。

 

でも、自分ではどうしようもできなくてこのループから抜け出せないんです。

 

諦めてスルーしようにも、

 

 “どうして、自分が嫌な思いを押し殺してまで、 

 話を聞かない方に合わせなきゃいけないの?”

 

というモヤモヤを払拭できません。

 

 

この類のイライラが無くなれば、私の人生とても変わる気がします。

 

結婚してもう10年以上悩んでいますが、

いい加減このストレスを無くさねば!

 

このままの状態で歳をとって、人生を謳歌できないのは嫌です。

 

 

お金と幸せ

 最近、収入が増えた訳でもないけれど、少しだけ意識してお金を使うようにしてみました。

 

 意識したことは、【普段よりランクの高い使い方をすること】です。

 

簡単に言うと、高額な買い物も臆せずする、ということになりますが、

普段から、「あ〜お金があったらこっちを買うのにな〜」「あ〜お金があったらあれをパッと買って解決しちゃうのにな〜」と思っていることにお金を使うのです。

 

 すると、買った直後は、「あ〜これこれ!これが欲しかったの〜幸せ〜〜!!」という感情ではなく、

高揚感と背徳感、満足感と罪悪感が入り乱れている状態でした。

まぁ、予想内ではありますが、相反する感情が一瞬のうちに絡み合い、なんだか幸せなのかよくわからないんですよね。

せっかく、お金たくさん使ったのに…

 

 さらに、その後時間が経ち冷静になってくると、あれれれ…

それを手にしたところで、その他の足りないものへの欲求や、それを味わうために必要な、例えば健康や環境がなく恩恵を受けられないなど、全く満たされるどころか、新たな“あれがない、これもない”オバケが生まれるだけだったのでした。

 

 もちろん、それとは別にちゃんと獲得したメリットもあるのだけれど、だからと言って文句なしに満たされるとか、私は変われた!とか劇的な好変化はないのです。

 

 つまり、お金がなくて手にできないとずっと自分を苦しめていた拗ねた感情は、単なる思い込みで、

それを手にしたところで、またほかの渇望感がちゃんと用意されていますので、人生の“精神的な”充足感においては何も変わらないし、きりがないという感じがしています。

 

 そう考えると、やはりよく言われているように、お金は幸せになるために必要な手段の一つなんだなぁ、と呆気なくストンと腑に落ちたのでした。

 

 とはいえ、大抵のことはお金でクリアできます。

ただ、その前の大前提として、大事なことがあります。

それは、

どんな自分になりたいのか、

どんな環境に身を置きたいのか、

どんな風に周りの人を応援したいのか、

など、そういった目的をしっかり明確にしておく、ということです。

その大前提がないと、お金に使われてしまいます。

 

 お金は、使って終わりではなく、

その瞬間、そしてその後においての自分の感情をしっかり確認しながら、次の使い方へと生かしていく。

 

 使って練習、使って練習。

失敗しても無駄遣いじゃない。

上手にお金を使えるようにならないと、精神的にも物理的にも豊かで幸せな人生には辿り着けませんから。

 

 誰かが言っていました。

「失敗とは、何もせずに立ち止まっていることだ」と。

 

 今、お金に余裕がない私は、今までの言動が間違っていたことの表れ。

お金は溜め込まず、使って、学んで、次はもうちょっと上手に使って、感謝して、また学んで、循環させる。

 

 しばらくは、お金の使い方の勉強代がかさみそうです。

 

 いずれくる豊かな人生を楽しみにして…

 

 

今がつまらないのは、過去のいい時と比べているから。

 

 毎日同じことの繰り返しで、専業主婦であることに誇りも持てない、特に冴えない私の人生、本当になんとか抜け出したい。

そう、心底思っていました。

 

 そう落ち込む時、いつも決まって、自分の中にこんな疑問が湧いてくるのです。

「じゃあ、今私は幸せじゃないってこと?」

と。

 

 そして、その答えは決まってこうです。

「そういうわけじゃないけど・・・今もそれなりに幸せなんだと思うんだけど。」

と。

 

 今朝は、家の窓からとてもくっきりした初日の出を見ることができ、

冷たく澄んだ冬の空気や、明るい未来を連想させる快晴ぶり、

そして、こんな時代でも家族皆で健康に新年を迎えられていることに、

素直に、「幸せだなぁ。」と感じたのです。

 

 よくよく考えてみると、その瞬間瞬間で、“幸せだ〜”と感じている時はあるように思います。

 

 それなのに、“こんな毎日嫌になるくらいつまらない”と思い悩むのは、どうしてか。

 

 それは、過去のいい時の自分と比べていたからだと気づきました。

 

 過去と言っても、私の場合、20代前半を指していて、

その頃の自分は、好きな仕事をして、自分で稼いだお金で好きなものを買って、

好きな友達、好きな彼、好きな家族と思いのままに過ごし、体の不調もどこにもなく、それは自由に楽しく生きていました。

 

 その当時はわかっていなかったけど、今振り返ると、“あの頃は良かったな〜”、と今だに執着している自分がいます。

 

 

 

 そりゃ、いい時とくらべてしまえば、どの時期の自分でも冴えなく映ってしまうのは、当然です。

 

 それが、“別に幸せじゃないってわけじゃないけど、それなりに程度でパッとしない”

という感覚になってしまうのです。

 

 もう、すごく納得!!

 

 過去は潔く忘れます。

 

 私は今、41歳。

妻にもなったし、母にもなりました。

持病もあるし、経済的にも不安要素アリです。

友達や家族との距離感も変わり、基本、心地よいおひとり様です。

 

 すべてが変わったのです。

 そして、これからも変わり続けていきます。

 

 「今」幸せ!と感じたり、

 「今」楽しい!と思える時が一瞬でもあるなら、

 

  もう、私の人生は幸せで楽しいのです。

 

  どこかで、今の自分は本来の自分ではない、と思っていましたが、

  今の自分が自分ですね。

  

  過去とケリをつけて、何とも比べず、今感じるこの感情をちゃんと味わい、

  これこそが、私の人生なんだと受け入れる覚悟を持とう。

 

 

やめてみて見えること

 この2日、食事を本当に作りませんでした。

添加物を気にせず惣菜や冷凍食品を使ったり、テイクアウトや納豆ごはんのみなど、

今まで怖くて出来なかった荒れ果てたメニューでした。

 

 はじめのうちは、「うわぁ〜なんて楽なの!!!」という気持ちと、

「栄養面大丈夫かな」「満腹になってるかな」「これすごい添加物だらけだ・・・」という心配と罪悪感の気持ちが交錯していまいた。

 

 その後、面白い感覚か湧き起こってきました。

その感覚とは、

 

 「ん〜〜!
 なんか料理したくなってきたぞーーー!!!」


だったのです。

 

 夫や息子が状況を察して、作れないなりに簡単な食事を作ってくれましたが、

予想に反して、100%純粋に喜ぶ自分はいませんでした。
 
 確かに楽だし、今まで嫌々作っていた日々の食事から解放はされましたが、

同時に、嫌々作り始めるものの、段々と集中していき、段取りを組みながら黙々と手を動かす確かな爽快感を感じていた自分を思い起こしました。

 

 そして、家族が美味しい!と言ってくれ完食してくれた時の報われたような心の充足感。

 

 料理が得意でない私はパパッと作れなので、頭も心も消費する家事トップ1が毎日の食事作りなのです。

 

 でも、そのストレスがあったからこそ、報われる瞬間をより濃く味わえるし、

時にはその集中している状態が心地いい時さえあったのです。

今思えば、、、

 

 そう、振り返ることが出来たのです。

 

 今でも料理が好きにもなっていないし、嫌な家事のトップに変わりはありません。

でも、疲れたら休めば、モチベーションが湧いてくる自分を発見しました。

 

 そして、その理由も、振り返ればずっと前からそこにあったことにも気付けました。

 

 料理は好きではないけど、家族のために食事を作るという家事の一つとして大きく俯瞰して見てみると、私がやりたくてやっていたのかもしれない。

 

 嫌というストレスがあるから、その反対側に生まれる充足感や報われた時の緊張がほぐれて温かいものに変わるあの感覚を味わえるのかもしれない。

 

 そう思うと、やらされている感覚から、自分で選択してやっているのだと思えてきたのです。

 

 時々は、食事作りを堂々と投げ出そう。

 

 散々願っていたことでも、叶ってみると思っていたのと違う、という感覚には早く気付けた方がいい。

人生の貴重な時間を、モヤモヤする毎日に持ってかれずに済みます。

 

 私の理想を持つための基準は、いつも不機嫌な自分ではなく楽しく毎日を生きていられているか、どうか。

 

 日々の食事作りを不機嫌なものにしない為に、良い部分を俯瞰して見られたことがとても良かったです。

 

 それでも嫌な時はもう疲れている時。

食事作りが嫌になる前に、堂々と休息して、不機嫌な自分でいる時間を減らしていこう。

 

偽の理想に惑わされていたことに、今更気付きました。

 前回のブログで、

自分の基準に照らして理想を精査していく。

という、内容を書きました。

 

 あれから、何日か考えている中、ある出来事が起きました。

 

 専業主婦ですから、朝昼晩の食器などの洗い物は当然の仕事となります。

特に、夕食後は1日の終わりで疲れてもいるし、洗い物の量も一番多いので私は大嫌いです。

 

 ある平日の夜、「俺、今日洗い物するよ~」と夫が言いました。

夫は洗い物が大好きです。積んであればあるほど、綺麗になって無くなっていく様が快感なのだそう。

 

 私は、いつものように「いいよ、私がやるから」と言います。

いつもは、そこで夫も「そうか」と言って、この会話は終わるのですが、

その日は、夫も「いいよ、洗うよ♪」と返すので、

私は、「いいって!お皿洗わなかったら私なんのためにいるのかわからないじゃん!」と少しキレて返します。

 

 その時です。

 

「え???○○(←私の名前)は洗い物のためにいるわけじゃないじゃん」

 

と、きょとんとした顔で夫が言ったのです。

 

 当たり前のように言う夫とは反対に、私は

「えぇ!!!」

となりました。

 

 あれ、本当だわ、そう!私、洗い物のために存在してるわけじゃない!

そんなの悲しすぎる!

もし、世界のどこかで洗い物のために生きてる人がいたら、私だって夫と同じこと言いたくなるもん!

なんでーなんでー!今までそんなことに気づけなかったのー!!私!!

自分で自分いじめてたんじゃない、この大バカ者~~

 

 と、心の中で、次から次へと自分への言葉が飛んできました。

 

 専業主婦だから、家の事はなんであろうと完璧であるべき、という思い込みが私を盲目にさせていたのかもしれない、と衝撃が走りました。

 

 家事を仕事終わりの夫に手伝ってもらうなんて、落ち着きません。

そんなことしてもらう自分でいたら自分の価値など無いと思っているからです。

せめて、家族のために役に立ってないと、私は自分自身の存在価値を保っていられないのです。

 

 その後、冷静にこの衝撃を味わってかみ砕いて考えてみました。

 

 専業主婦なら家の事は完璧にできて当たり前だ、という私の理想は私だけの理想であって、夫の中ではそうではなかった。

 

 誰もそんなこと求めていなかったのか、、、。

 

 私がこの理想に追いつく為に、苦手な家事を嫌々やり続けてきたことが、なんて無駄なことだったんだと。

 

 そう気付いた瞬間に、私の中でこの理想は消えました。

 

 ここで、わかったのです。

 

 私のこの、

“専業主婦として家事を完璧にこなしたい”

という理想は、私の基準ではなかったのですね。

 

 一般的な専業主婦の理想像、

夫や子からこう求められているだろうという思い込み、

そういった、外的な要因から生まれた偽の理想だったのだと、今ははっきりと認識できています。

 

 私自身は、家事において、そこまで情熱や向上心など持っていなかったのです。

(ずっと持っているとさえ思いこんでいました。)

 

 まさに盲目状態です。

 

 今回の事で、案外、自分自身を知るということができていないのだなぁ、と思いました。

 

 正しい理想を持つ上で、自分なりの基準、価値観を軸に精査していくこと。

 そのためには、自分自身を知ること。

 そして、自分自身を知るためには、他人との相違点が大きなヒントになること。

 

を学びました。

 

 私一人では出せなかった答えを一つ得ました。

 

 夫の何気ない価値観に触れた時に感じたズレ、違和感。

それこそが、自分自身を可視化させてくれるきっかけになるのですね。

 

 

 後日、平日の夜に、また夫が声をかけてくれたので、洗い物をお願いしました。

終わると、夫はニコニコしながら、

 

 「やっぱ俺、洗い物好きだわ~、気持ちもいいし、無心で片付けてると瞑想してる感覚に近いんだよね~、夜ご飯食べてすぐに眠たくなる時間帯もやり過ごせるし~これから夜のルーティンにしよかな!」

 

と言うのです。

 

 さすがに、ルーティン入りはお断りしましたが、、、

私があれだけ嫌々執着していた理想を手放しても、何も事態は変わらない。

むしろ、今回のことに限って言えば、目の前の人は迷惑どころか楽しんでいる。

 

 私は一体どれだけくだらない理想に囚われていたのだろう、と拍子抜けしてしまいました。

 

 今回は大収穫!

なんといっても、こんなに大きな理想を一瞬で手放せたのですから。

しかも、なんの迷いも葛藤もなく、苦労もせず、サラッとですから、清々しいったらありゃしない。

 

 そして、今は、

専業主婦として、私が大事にしたい本当の理想を見つけたい。

そう思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理想の断捨離をすれば、真の理想を見つけられる

 毎日、無気力なまま、何も成せないまま、1日が過ぎ去っていきます。

  当たり前の日常にこそ、価値がある…

よく聞く言葉ですが、私にはどういうことなのかよくわかりません。

人生の本質を知っている賢い人は、小さな幸せに気付き、感謝し、何気ない日常の繰り返しこそに幸せを感じているのでしょうか。

 

 私にも小さな幸せはあるのですが、満たされてはいません。

同じように小さな幸せに気付けているのに、満たされている人と満たされない人の違いはどこにあるのかな…

 

 前回のブログを更新してから、理想的なイメージが浮かんでもポイっとスルーしてみています。

 まだ始めて間もないですが、とても無理しています。

それでも、理想を考えないようにスルーしても、私は変わらず生きていられるし、目立ったトラブルが起きたり困るわけでもないんですよね。

案外、理想なんてものはあっても無くてもどちらでも一緒じゃないの、と思う時さえあります。

 

 ふと、理想を手に入れたとして、本当に求めていた変化が起きるのか想像してみることにしました。

 

 まず、今の部屋よりもっと広い部屋に引っ越したいと思っている私は、

自分が広い部屋のリビングでくつろいでいる様子をイメージしてみます。

 

 あれ、ワクワクしてきません。

 

 望んでいることは確かなのに、どうしてか。

正確には今より広いマンションに引っ越せて、ワクワクする瞬間は確かにあるのだけれど、その状態が継続しない気がするのです。

きっと慣れてしまい、また今と同じ顔をして惰性で暮らしている自分が想像できます。

 

 ワクワクした状態が継続しないということは、また渇望し次の理想を追い求める、

ということになります。

もう渇望は嫌、うんざりするほど味わっています。

 

 理想が高いとは、やみくもに無駄な欲までを理想としてしまい、求めていただけのこと。

湧いてくる欲を一つ一つ精査してから理想へ昇格していくことが必要かもしれません。

 

 精査、、、

 

 私の場合は、ワクワクが持続すること。

これが基準のようです。

 

 物欲は、手にした一瞬は嬉しいけど、日を追うごとにしぼんでいきます。

だから、基準を満たしていません。

 

 

 理想を手放すにあたって、量を半分にすればいいと思っていた私ですが、

量ではなく質を見直さなくてはいけなかったようです。

 

 理想は、あれもこれも何から何まで持つものではないのですね。

 

 

 本物の理想を少しだけ。

自分なりの基準で残していく。

 

 そうして残った真の理想を手に入れた時、

もしくは手にするまでのプロセスまでもが

心を満たしてくれるかもしれません。